エンゲージ

坂道を下りながら、二人で空を見た。


きょうはいっぱい出てるね、星。
うん。


ポケットに手をつっこんでいるから、
その手首のすきまに、わたしが手を入れてみた。


腕を組んでることになった。
ほどかれなかった。
坂道を下りきっても、しばらくそうして歩いた。



空にはきょうも星がある。
空と結んだ約束のしるし。

反対語

PTA会長時代の会長仲間の娘さん、小学校4年Aちゃんのお話。
ある日彼女はおかあさんにこう尋ねたそうな。


「ママ、過保護の反対ってなに?」


ママの答え。


「放任よ」


Aちゃんの叫び。


「Aはいままで、ホウニンされてたんだああ!」



Aちゃんは「放任」という言葉のミーニングを知る前に、
内容を、じゅうぶんに体感していたというわけ。


すばらしい。
該当する言葉がわかって、よかったね。



Aちゃんのなかで「過保護なママ」として認識されているのは、
娘のともだちへの誕生日プレゼントを自分で買ってカードまで書くという、
あるともだちのママらしい。



ホウニンのママは、そんなママとは比べものにならないくらいいいママよ、Aちゃん。
「反対語はなに?」なんて洒落た切り出しかたを思いつかせてくれるママなんて、そうそういるもんじゃない。



一度、わたしの娘のCと対談させたいものです、Aちゃん。
「鳶が生んだ鷹の爪対談」とかいうタイトルで。

come back to you

この半年、いそがしかったあああああ。


執筆代行という、人に代わっておしおき、じゃなくて、人に代わってその人の文章を書くという、
職人仕事の中身と外身を、いちから作っていたのだ。


物書きとしての技術、編集者としての技術、女性としての受け止め力、素直な感応力、先入観なく興味を抱く心、など、自分に与えられた資質と、これまでに獲得した技量をフルに使える楽しい仕事だ。


とはいえ、自分の文章を書く時間が全くなかった。
物真似四天王ともなると、自分の地声を忘れるとか、わたしもそんな感じだった。


しかし、半年も続くと、さすがに、このへんで発声練習しておかないとまずい、という気持ちになってきた。
わたしって、どんなエッセイ書いていたっけ。


おそるおそる、放置していたこのブログを読んでみた。
なるほど。
こんなだったか。



タイトル変えて出直します。
よろしく。

夢の裏打ち

きのうの明け方、長い夢を見ていたらしい。

ストーリーがしっかりしていて、エピソードのつながりかたに破綻がなかったようで、起きてからも、その手応えのようなものが残っていた。

きのうは、午後から出かけて、人に会ったり、仕事をしたりしていたのだが、そのときどきに、その夢が、ふっ、ふっ、とはさまってくる。

一瞬、なにか思い出しそうで、すっと、そちら側に移行しそうな気持ちになる。

夢のストーリーを思い出しているわけではない。

現実の床板に触れて、夢の天井に手のひらをつけるような感じ。

オーラソーマの色と色との分かれ目を触っているような感じ。

わたしがこちらで一時間過ごすあいだに、夢も一時間進んでいるかのようだ。

夢は夢で、なんだかときどき、「夢」が接触してくるなあ、と認識しているのかも知れない。

けさ起きてからも、その感じがずっと続いている。

もう少し、はっきりと捕まえたいのだけれど、これはこれでいいのかな。

女ともだち

中高大、女子校育ちのわたしにとって、ともだちというのは、基本、女ともだちである。

6年間につきあった子は、学年の生徒数でいえば250人。
毎年クラス替えがあったけれども、そのなかで、親しく言葉を交わしたのは、通算で、ちょうどひとクラス分の50人くらいだったと思う。

大学もいっしょになった子は、26人。
そのうち親しかったのは3人。

大学を卒業してから、最近までは、かつてのクラスメイトとは、断続的にしかつきあえなかった。

お互い、人生に忙しかったのだ。

ところが、この4月1日までに、みんなが「創業半世紀」を迎えることになり、随所で、つきあいが活発化しているようだ。

わたし自身、よく連絡を取り合うクラスメイトが、10人くらいに増えた。

一昨年の秋の同窓会の幹事会に入ったおかげでもあるけれど。

きのうは、外国から里帰りしている子を囲んで、総勢7人でランチを食べた。

12歳で出会ってから(人によっては、進学教室時代も入れて11歳から)現在までの38年(か39年)の時の流れから引き出された話題が、一つのテーブルの上で、ランダムに、ほんとうにランダムにいきかう。

それでも頭がぐるぐるすることはなく、わたしたちはとてもスムーズに、時空を旅するのである。

わたしは、はっきりいって、男性にそうとう甘えて生きてきた女であって、男性がもたらしてくれる安堵感がとても好きだ。

女同士のほうが気楽だ、とは一度も思ったことがないのだけれど、きょうは、とてもリラックスしている自分を感じた。

長いつきあいの女ともだち同士、思いやりの湧いてくる源が、それぞれのなかで深い。

心がほどけるなあ、とみんなの顔をうっとり眺めた。

女ともだちスパ。

そんなひとときだった。

おおきなもの

しばらくぶりに、自分の時間が戻ってきた。

カフェの窓から、外の景色に向かって、自分を解き放した。

すると、五感で感じきれないものの大きさに、ふいに気づいた。

いわゆる「目には見えないもの」。

それは、とてつもなく、大きい。

その大きさと豊かさに圧倒されて、しばらくぼーっとしていた。

そうしたら、景色の見えかたが変わった。

とても薄い絹の幕に映し出されているように。

横から透かしたら、幕全体の重さで絹の織り目がゆるくたわんで、筋になって光っているのが見えるよう。

幕は幕自体で美しいけれど、

それは、向こう側に大きな大きな果実を包んでいるから。

そんなふうに、思った。

三次元

インフルエンザの次は花粉対策ということで、マスクの広告が目につく。
わたしが気になっているのは「三次元マスク」。
他のマスクがいくらぺったんこに見えても、二次元だったら触れないし、まして装着できないわけで、このネーミングはなにか勘違いしてるだろうと思うのだけど、いいたいことは、まあ、わかる。
顔の凹凸に「立体的に」フィットする、と強調したいんだよね。
「3D」はやりでもあるし。
それをいうなら毎日わたしが顔よりちょっと下に装着しているフランスのブラも、3D的フィッティングで女性ならきっと誰もが目から鱗を落とすはずだ。
いままで自分がしていた日本のメーカーのブラはなんだったんだ、あれじゃまるで胸のマスクじゃないか、と。
いや、だからそのマスクもいまや三次元になっているんですよ、と話はループする。
わたしがいいたいのは、志を立てる、ということなのだ、きょうは。
けさ、朝寝の毛布にくるまって考えていた。
自分の望みについて。
そうしたら、なんだか、自分が、ペーパークラフトの飛び出すカードの、飛び出す部分になったような気がした。
気がするとともに起き上がってきている。
心のなかで、自分が起き上がってきたのだ。
背景がなかほどで90度に折り畳まれて、わたし自身はマイケル・ジャクソンばりの筋力で(彼は俯き姿勢からだけど、わたしは仰向けで)かかとだけを支点にぴゅうっと、立ち上がった。
ついさっきまでは、平面のなかにいた。
わたしのなかにある望みも当然平面にあって、周りと切り離せなかった。
周りとはつまり、いいわけの世界だ。
いいかえれば、自分を取り巻く、条件の世界。
なにかの拍子に、わたしは自分の輪郭に切り込みを入れることができていたらしい。
そのことに気づかないまま、けさ目を覚まして、すべてを望むことを自分にゆるそう、と思ったのだ。
じつは一週間ほど前から、そう考え、そう思うことを自分に、いわば課していた。
望みを持つことに対して、あまりに抑圧をかけている自分を知ったからだ。
立ち上がってみて感じる。
「立志」ってこれだったんだ。
二次元から三次元へ。
以下つづく。