運命の人

きのうと同じ書きだしを使おう。


わたしは、外を歩くときに人よりきょろきょろしているらしく、
街で知り合いを見つける確率が非常に高い。


ほんとうにそうなのだ。
これは十代の頃からで、高校のともだちに「生きてる人を呼ぶイタコ」とあだ名されたこともある。


それで、きょう書きたいのは、この「能力」が、特定の人にとても濃く働く場合のことだ。


一人は、長きに渡って地元小学校PTAの相棒だったTさん。
彼女はいまはこの街に住んでいないが、部屋がまだ残っていて、お稽古事やこどもたちの用事でそこにくることが月に数回ある。



彼女の部屋のあるマンションはわたしのマンションから歩いて20秒だから、極めて近いとはいえ、
わたしがこの気まま暮らしのリズムで、好き勝手な時間に家を出てどこかに向かおうとすると、
彼女がまさしくそのときに、わたしのマンションの前にさしかかるという具合。



同じく街なかの方向にいくときもあれば、彼女は部屋に向かっているときもある。
家の前の道をもう少し駅よりまでいったところで会うときもあるし、
ちょっと遠くてスーパーのなか、ということもたまにある。



きょうそちらにいきますとか、何時頃には着いていますとか「一度も」連絡をもらったことはないのだが、
彼女がきているときには「必ず」このようにして出会うのだ。



小指と小指が赤い糸で結ばれているどころではないと思う。
胴体と胴体を真っ赤な注連縄で結ばれたような二人だ。


もう一人は、息子と娘とがつづけて6年間お世話になった、高校進学塾の数学講師M先生。


60歳のベテランの先生で、柔道の心得があり、むっくりとした体格にスキンヘッド、銀縁眼鏡と口髭という強面、のわりに声が高い。
歩いている姿が、ちょっと他の人と違うようにわたしには思える。
なんとなく、目立つ人なのだ。


その塾の教室は、駅前の本部と、わたしがマンションから大通りに出る通り沿いの分室の二つにある。
M先生は、一日に少なくとも一度はその間を往復する。
わたしが地元にいるときの動線と、M先生のそれとが重なっていることは確かだ。


それにしても、わたしは頻繁に、M先生と会ってしまう。
午後から夕方にかけてならば、通りを歩いていてふと顔を上げると
二回に一回はM先生がそこにいる、という感じだ。



上げてないのに、ふっと意識によぎるものを感じて、顔を上げたらM先生だったということもしばしば。



あまりにたびたびなので、最近では、声をお掛けするのもためらうほどだ。
つい数日前は、大通りのケーキ屋さんから出たとたんに、
M先生が右方向からジャストのタイミングで歩いてきて、あやうくぶつかるところだった。


お話するととてもシャイな方で、いやー、どうもどうも、また、どうも、ごにょにょ、と去っていかれる。



先生にとっても、わたしほどしょちゅう出くわす保護者というのはいないのではないかしら。
お互いに、もう少し条件が整っていると、運命の人だわ、と思い込むところだけれど。



それをいうなら前述のTさんだって相当に運命の人である。
TさんとM先生、二人の共通点は、まとっている空気が、通りを歩く他の人と違うということだ。
それは、わたしにとって、ということなのかも知れない。


二人はわたしにとって、いわゆる「フラグ」の立った人なのだ。
また、彼らほど偶然には会わないけれど、見え方が他の人とはくっきりと違う人もいる。
この人にも「フラグ」が立っているのだろう。


彼らの身体の分子構造が、わたしに向かってよく見えるように揃っている、とでもいったらいいか。
そして遠くからでも感知できるような「いるぞ」とか「いくぞ」とかいう信号を全身から発しているのだ。


かくいうわたしもまた、ある女性から
「歩いていると、しゃらーん、と音がしている」といわれたことがある。
そういう彼女も、また分子構造が….



ときりがない。
人と人とが出会ったり、引かれ合ったりするのは、年齢性別関係なく、
お互いの分子構造とそこから発せられる信号(しゃらーん)によるものではないか。



二人の間に生まれるものが、友情でも敬愛でも恋でも、
それは祝福されるべき出会いなのだと思う。