女性専用車両の乗り心地

朝早めの仕事で、JRの最寄りの駅を出るとき、混雑を避けてだんだんに先頭のほうへ移動していき、乗ってみたらば、あれ、女性専用車両だった。


上は70代から下は10代まで、乗客は女性ばかり。
当たり前だけど。


このブログでも再三書いているように、わたしは中学から高校、大学まで女子ばかりの学校に通った、「骨の随までの女子校者」である。


女性専用車両は、12歳からおなじみの女性だらけの世界、であるはずだ。
しかし、なんなんだ、この居心地の悪さは。
なぜ、リラックスできないんだ。


自分に問いかけるが、答えはない。


さまざまな年代の女性が集まっている状態は、女子校とは違うのだということがわかってきた。
つまり、女子校は世界の小さな一部だが、さまざまな年代の女性が乗っている女性専用車両は、世界の半分を象徴しているわけだ。


世界の小さな一部のなかに自分が納まっているときには、その一部以外の世界の大部分はほとんど意識に上らない。
しかし、世界の半分を象徴するような場所にいると、あとの半分が「ない」ことが意識に大きく映し出される。


男性は、どこにいったのだろう、と疑問がわいてくる。
もしかして、いましがた、世界から男性が消えてしまったのではないだろうか。
さっきまで、世界には男性と女性がいた、ということを知っているのは、わたしだけなのではないだろうか。


たとえば隣に立っている同年代の女性に、「男の人たちはどうしたんですか」と聞いたら、
「オトコノヒトタチ?なんですか、それは?」と聞き返されてしまうのかも知れない。


女性たちはみな、電車に乗っているのは自分一人だ、みたいな顔をしている。
誰も、周りの人を見ないのだ。
誰もが顔の向いた方向を、風景を見る目で見ている。


普通の車両でも互いは無関心のようだが、ときとして、
男性が女性を見る視線と、女性が男性を見る視線が空間でクロスしているのを感じる。


男性の、視線はきていなくても意識の線がくることもあり、それはじつは視線より強かったりするのだ。
(この線の詳細についてはまた別の機会に)


そういう線と線との交錯は、車両内空間のスパイスのような役割を果たしていて、昨今殺伐としてはいるが、車両を東京という街の一部として成り立たせているように思う。


女性専用車両には、男性がいないだけでなく、その交錯がないのだった。
いわゆるお化粧臭い空気以外、そこには雰囲気というものがない。


居心地が....悪い。


息が....詰まる。


つまり、わたしは男好きってことなのかなあと思いつつ、途中駅で特別快速に乗り換えるのをよいことに、女性専用車両を後にしたのだった。