女神

午後7時に近い通勤電車。
乗換駅で、乗客が大きく動いた。
立っていたわたしは座ろうと体の向きを変える。
わたしの横で同じように座席を目指す男性の顔に目を留めた。
眉の上に、横向きの稲妻のタトゥがある。
髪は短く、黒のスポーティなジャンパーに防寒素材のパンツ。
大きなバッグを持っている。
がっしりした体つきと、頬に残る外気と日差しの気配。
肌に微細なちりが、めりこむようにはりついている。
ガテンのおにいさんだ。
並んで座った。
おにいさんはわたしの右。
わたしがバッグから携帯電話を出して時間を確かめているとき、二人の間に彼の左手がぽとっと落ちた。
指先がわたしのコートの右の腿の側面をかすめた。
彼の爪の先でダウンコートの生地が乾いた音をかすかに立てた。
おにいさんははっとして目を覚まし、わたしに小声で謝った。
わたしは、いいえ、と首を小さく振った。
そのあと彼はまた眠りに落ちた。
頭がわたしの肩のほうに傾いてくる。
朝早くから外の仕事で疲れているんだろうな。
頭のせちゃって構いませんから。
そんなことを考えていると、おにいさんはまたはっとして、ほろ酔いの人のようにうなづいて謝りの気持ちを表し、今度は膝に置いたバッグに上半身を預けるようにして寝に入った。
今度謝られたら、降りるときに「お疲れさまでした」といおう、と思ったが、おにいさんはもう傾くことはなく、次の駅ですっと立って降りていった。
ガテンのおにいさんたちに、反射的に親しみを覚えてしまうわたしだ。
職人さんにかわいがられたこどもの頃の思い出と、仕事師の彼との初恋と。
イメージのなかの泉。
ほとりにガテンのおにいさんがやってくる。
水中からわたしが現れ、彼にきく。
「あなたが落としたのは、金のかんなですか、それとも銀のかんなですか」
大工さんバージョン。
「あなたが落としたのは、金のこてですか、それとも銀のこてですか」
左官屋さんバージョン。
「あなたが落としたのは、金の刷毛ですか、それとも銀の刷毛ですか」
経師屋さんバージョン。
「あなたが落としたのは、金の鑿ですか、それとも銀の鑿ですか」
指物師バージョン。
「あなたが落としたのは、金の足場丸太ですか、それとも銀の足場丸太ですか」
真打ち仕事師さんバージョンだけど、わたし、持てるかなあ。
鉄骨鳶って人もいるし。
「あなたが落としたのは、金の鉄骨ですか、それとも銀の鉄骨ですか」
いちばんの花形は、橋梁鳶らしいし。
「あなたが落としたのは、金のワイヤですか、それとも銀のワイヤですか」
並大抵のワイヤではない。
誰の何を持って上がってくるにしても、古今東西わたしのなりたいもののいちばんだと、いま確信している。
ガテンの女神。