arriver

母の家からの帰り、電車の椅子の暖房があんまり熱くて膝の裏が焼けそうに思い、立ってドアのところの窓から景色を眺めた。
郊外の住宅地が続く。
屋根と屋根が重なりあうようだ。
マンションもところどころに立っている。
人の生活が家や建物の形で見えているのだ。
結婚し、こどもを生み、そのこどもと自分たちとを生かしていくために働く。
少しでもいい暮らしを、したい、させたい。
豊かになりたい、成功したい。
ながいながい行列について、ときおり上半身を傾けて列の外に出し、前後の並び具合を確かめる。
それで、少しずつ、少しずつ、終わりのほうへと進んでいく。
それだけでいいのか。
そのために生まれてきているのか。
そもそも、人間は、そういうものとして、ここにきているのか。
地球は大いなる自然だけれど、人間は、ほんとうにその一部なのか。
進化の枝の猿の先に、実った智恵の実。
それがわたしなのか。
わたしの肉体はそうかも知れないけれど、こう考えているわたし自身は、違うように思う。
生きるために、ここにいるのではない。
生きていないとここにはいられないけれど、ここにいるために生きているわけでもない。
こどもたちを生んだとき、彼らが「訪れた者」であることを直観した。
彼らの肉体を育んだのはわたしの肉体だけれど、生まれた肉体が彼らになったのは、彼らの意識がここに訪れたからだと思った。
とすれば、わたしもまた、訪れた者ではないのだろうか。
わたしのなかにいるわたしは、生まれてきたのではない。
目に見えるもの、手に触れられるものを求めるのが肉体であれば、わたし自身であるわたしには、目に見えないもの、手に触れられないものを求めて、表現していく役目がある。
娘がある物語に出てくる「神獣」の話をしてくれた。
アニメーションではそれは、狼の頭と鷲の体を持っているそうだ。
わたしは、それはおかしくないかと彼女に聞いた。
「神の」獣であるのに、人間が「知っている」獣と鳥のハイブリッドでは、神々しいとは感じられない。
娘は物語には影しか出てこないのだという。
それならわかる。
人を超えたものは、これまでに人の「見た」もののなかにはない。
わたしたち自身がかつてそうであったように、目に見えず、手に触れられないもの。
人を超えたものから人に訪れたもの。
わたしはこれから、それを求めて表現していこうと思う。