元気でいること

例によって道でよく人に会うわたしだが、必ずといっていいほど「元気そうね」といわれる。
最近はともかく、PTAに専心していたころは、毎日ぼろぼろに疲れていて、自分ではとても元気とはいえない状態だったのだが、それでも、会う人会う人「相変わらず元気そうねえ」というのだった。


最初に副会長をした年の秋(白状すると副会長2期、会長2期務めた。なぜにそこまで、といまでは他人事のように思う)には、周年行事と次期役員選出、対外的バトルと、ハードなことが三つ重なっていた。
もう一人の副会長は、日に日に目の下のクマが濃くなり、法令線が深くなり、ほっぺが落ち(ひどいこといってるな)見るからに気の毒な様子で、ついには胃痛で倒れたりもしていたのだが、わたしのほうはいっこうに、見た目に苦労が出なかったようだ。


人一倍体力がないことはほんとうで、家では土日寝続けだったにも関わらず、一歩外に出るとどこから見ても元気そうになってしまうらしかった。
当然同情はされないし、好きでやってるんでしょうなんて陰でも日向でもいわれたものだが、正直いって、クマや法令線よりは風当たりのほうを好むわたしでもあった。


そんな数年のあとで、ある人が、元気なあなたの顔を見るとほっとする、といってくれた。
自分の周りには元気のない人ばかりで、参っていた、と。


いわれてうれしかったが、わたしには、その言葉の意味がじゅうぶんに理解できていなかった。
自分が元気でいることに価値があると思うのは自惚れだと、意識と無意識のあいだのカーテンのあたりで考えていたからだ。


わたしは、なにか人の役に立つことをして初めて、かろうじて、存在が許される。
いるだけで、自分では気がつかないままに元気な顔をしているだけでいい、なんてことが、あるわけがない。
じっさいに、そういう意味のことをいわれているのに、いってくれているその人の気持ちを、自分のなかで否定していたのだ。


二年以上も経って、わたしにはそれがようやくわかった。
これからもただ、元気でいることを、遅れに遅れたお詫びと感謝に換えさせていただきます。